nararaiぶらり

お金にならないものを貯めたい

あなたには息をする覚悟がありますか

あんまり、クサいことを場を考えずに垂れ流すと、あんまりにもクサいので、ここに綴ります。

しかし、野暮ったくしたくないので、抽象的なことをずらずらと書いていきます。

 

ピノキオピーの「ノンブレス・オブリージュ」を森山至貴さんに編曲していただいた、Nova Animaの「ノンブレス・オブリージュ」のMVが公開されました。

 

youtu.be

 

ただのいち団員、いち歌い手、いちその場にいた人、ですが、観測者ヅラするにはちょっとばかし、体験型芸術すぎる体験をしたと思います。

曲についてみんなと深掘りして話し合う時間は特にありませんでした。

合唱では珍しい話ではありません。

原曲があろうとなかろうと、楽譜には、音だけではなくたくさんの意図、(編曲者の)解釈のヒントが著されています。

 

フランス語のノブレスオブリージュ(noblesse oblige)をもじったこの楽曲ですが、ノンブレス・オブリージュ、と聞くと、「息を止める」ことを「強制する」なんだな〜と思いますよね。

ノブレスオブリージュの方は、そのまんま「高貴」を「強制する」ではないので、この「・」のあたりに何かひとつ解釈を加えないと繋がらないな、というか、そもそもそのまんまの訳ではないよな、というのはなんとなく共感していただける方もいらっしゃるかと思います。

 

この曲自体、某高音テスト楽曲よろしく、「息が保つもんならやってみろ」的な、VOCALOIDの逆襲的な、しばしば起こるボカロ歌ってみたへの挑戦状に挑戦する的なムーヴメントで流行したかと思います。(あまり近年の動きに敏感でないのでよくわかっていません。)

ほとんどの人が、歌っていて「歌詞は目から入って口から出るだけで脳は一切通りません」なんてことはないと思いますので、この曲の歌詞の意味とかは考えずに歌っても、(おおげさに言えば)「たった今息が詰まっているしこんなに苦しいなら殺してくれ!」みたいになるその瞬間、楽曲とリンクして気持ちいいだろうな、と思います。

 

ところで、別に大仰な話ではありませんが、私は、「息していたい」「死にたくない」と人間誰しも思っているだろう、とは思いません。

と、言っても、毎日毎秒毎瞬間「死にたい!」とエネルギーを使ってまで外に発信したいとかは思わないことと思います。

息を吸って、「死にたい!」と言ってみてください。非常に面倒くさい。これをずっとできる人はすごい。

話が逸れました。

この曲の歌詞のここがこうだ、とか解釈を逐一並べるのは野暮なので致しませんし、我々は「ボカロのように澱みない発声でとにかく息は(便宜上)吸うな(ということにする)」と指示されていたので、単語一つ一つや情景に合わせた感情的な表現はしていなかったわけですが、単なるあいうえおの羅列で済ませられないのが人間という脳みそを介してしまったサガでした。

「息を止める」と息を吐きながら歌って、最後には「呼吸する」のですが、「たった今息が詰まっているしこんなに苦しいなら殺してくれ!」という気持ちが自然発生しました。

でも息しているんだよなあ。

生きたい生きたい生きたいと歌っている気持ちよりは、死にたい死にたい死にたいと歌っている気持ちの方が近い。

他者を傷つけながら呼吸するんだね、と嗤いながら、死にたいと叫んでいるとしたら、なんという自己矛盾が渦巻いているんだろう、と、混乱したものです。

でも生きてるんだね。

とてつもなくエネルギッシュに。

呼吸するんだね。

そっかあ、と思いました。

でも生きるしかないのです。

本当に息を止めることを選ぶのであれば、それは大変楽でしょうが、傷つけ傷つきながら呼吸することから逃げることはこれらから遠ざかることだぞ、と言われているような気持ちになりました。

こんなに苦しいなら殺してくれ!」

と、思いながら、息をすることは、とてつもなく気持ちが良かった。

おそらく、ざらざらぼこぼこした表面をならしてみると、生きていたいんだろう、と自覚しました。

おそらく、みんな生きていたいんだろう、と。

どちらかと言うと、ノンブレス・オブリージュ、というより、ブレス・オブリージュを感じてしまうのですが、それではあまりにも嫌味ったらしすぎますね。

否、自分で気づかせてくるあたり、反対にもっと嫌味ったらしいのかもしれませんが。

カンニングブレスでシステマティックに、また出音だけはブレス音が聞こえないようにシームレスに入れ替われば、この曲は見た目だけには息をしていない人ができあがるでしょう。

しかし私たちはどうして、カンニングブレスはなんだかあまりしたくなかったのでしょう。(もちろんしています。)

私は歌いたかったです。

苦しくなりたかった。

その方が何かわかる気がした。

ちゃんとブレスをとるようになっても忘れませんでした。

たぶん、一人で重ねて録って切り貼りして、とやるであろう歌ってみたよりは、なんだか色々な人の意地や、その向こうにある無意識/意識的な思惑を感じられるような気がします。

結論としては、みんなで歌ったらやっぱり新しい世界がちらりと見えた気がする、ということです。

たぶん、割と、みんな、自分が思っているより、辛くても息していたいんだな、と思います。

わかって良かったな、と思いました。

Portrait of Summer

1.
初夏。ちょうど、夜の空気が湿っていて、息を吸い込めば胸いっぱいに夏の匂いが立ち込める季節。
あの公園で、あの夜に、貴方とお菓子を食べた季節。
あの頃の記憶は今でも確かに少しほろ苦く感じるほどに幸せだった。
ほろ苦く感じるのに、きっと私はあの下り坂を、スキップで下ってしまうだろう。
貴方が待っている。
貴方が待っていると思って、足取りが踊ったのだと、貴方に伝えるために。

今年は、夏が来る前に訪れて、新しい記憶にしよう。
貴方がいないあの公園を、覚えていよう。
そして、微睡みに沈む、大人になった貴方の真似をしてみよう。

 

2.
恋をしているんだ。
貴方の口ぶりでわかった。
綺麗なものを語る人の目だ。
素敵なものを嗅ぐ人の声だ。
そして、貴方の恋はきっと届かないんだろう。
そんな遠回りに褒めなくたって、貴方の好きな物は素敵なのに。
まるで掬い上げようとすれば逃げる水面の花びらを愛でるみたいに、遠い輪郭ばかりなぞるんだ。
それが幸せなんだなあ。
それが望みなんだなあ。
私は、近くで貴方の幸せを噛み締めることにした。


3.
随分遠くまで来た。随分長く同じように歩いてきた。
胸の奥底にはグルーヴがある。
リズムに身体を委ねれば、他人が嘲笑うような長い旅路も、案外と辛くない。
何が目的かは忘れてしまったが、馬鹿みたいに歩き続ける自分が嫌いではなくなっている。
きっと人生の大半のことはこんなことばかりだ。
乗りこなしてしまえば不幸も大した不幸ではないのかもしれない。
それでも、頑なに不幸を不幸と呼ぶ自分自身こそが呪いのようだ。

 

4.
眠りから覚めた後、想像以上の陽気と、乾ききった喉から漏れた息が否応なしに現実に引き戻してくる。
けれど、悪くない。悪くない普通の現実だ。案外と、私は普通に一日を過ごしている。
椅子から腰を上げた瞬間。
キッチンカウンターの角にそれとなく手をかけた瞬間。
キッチンの窓から差す西日が私の足元に影を作った瞬間。
胸の奥底が焦げる匂いがする。
その原因に思い至らない。夢の中で、何を見たんだろうか。
私はどうして、涙を流していたんだろうか。


5.
どうしてもっと速く歩けないのだろうか。
雪に埋もれないように、足を高く持ち上げる。
どんどんと重たくなっていくのに、雪はどんどん深くなっていく。
このままではどこにも行けない。このまま白に埋もれてしまうかもしれない。
途端に泣きたくなる。
普通のことなのだ。
自分だけが不幸だから、こんな目に遭っているわけではないのだ。
けれど、逃げるために、離れるために、歩を進めることが、これほどまでに重いだなんて、知らなかった。
きっと貴方も泣きたい気持ちだろう。
どうして、こんなにも辛い思いをして、離れなければいけなかったのだろう。
でも、辛い思いをしないことが、二人の目的ではなかったのかもしれない。
辛くて良かったのに。
呟いて、涙が頬で凍り付いた。


6.
音と光が、過っては波のように目と耳に刺激を与える。
ずっとこの場所にいては、私はいつか彼らに轢かれてしまうかもしれない。
きっと今晩が晴れていて静かであれば、こんなことは考えないのだろう。
否、今度は月に連れて行かれそうな気分になるかもしれない。
恐怖は所詮、道楽だと鼻で嗤う。
笑い声を上げる以外に、それらを吹き飛ばす方法がない。
恐怖に浸かりながら、笑い、楽しげに千鳥足で進むともなく揺れる。
離れて行ってしまえばいい。
静かな場所でも、騒がしい場所でも、私に関心を寄せるものは、私でさえも離れて行ってしまえばいい。
何も残らない場所でならば、孤独など定義されないのだろうから。

 

7.
駅前広場の喫煙所の入り口で、煙臭い男の胸に頬を寄せる少女。
背を伸ばして、懸命にその胸に摺り寄せて。
それで得られる物が羨ましい時が、私にもあった。
夜の街で、煙草や酒の匂いを浴びて、それでも美しくいて、それで愛されることが喜びだと思っていた時が、私にもあった。
男が少女の額を撫でる。
その後は見ないように、踵を返した。


8.
昔は確かに知らなかったのだ。
こんなに愛だの恋だので人間の汚い部分が生まれ、顕になって、好きだったはずの人を憎むようになるのが、あまりにもよくある話だと。
知っていれば愛さなかっただろう。
現に、今は愛することができないのだ。
気付けば隣にいた貴方を愛して、傷付けて、遠くにいる今も夢の中で蔑み続けるのだから。
十年前の記憶の中でだけ、貴方も私も穢れを知らない笑みを知っている。
あのままでいられれば良かった。
あの頃は何も知らないで、何も考えないでいてくれてよかった。
目の前に幸せがあったのだ。気付かなければ消えやすい物にもならなかったのだ。
目を瞑ってあの頃の自分の声を思い出そうとする。
どんな声で、貴方を呼んだろうか。

 

9.
風が強いと、悲しくなくても涙が出る。
特にこの季節の風はそうだ。
花は疾うに散って、砂煙や草いきればかり運んでくる。
日が陰ってから想像以上に冷たく、想像通りに温い風が髪を乱して、瞼の内側にまで入り込んでくる。
そういう時は歯を食いしばるものだ。
何に対抗しているものか、風に対抗しているのだが、やけにムキになる。
やがて風がすっとどこかへ行ってしまった後、坂道の上ではっと気が付く。
気持ちのいい空気を大きく一つ吸う。
最近の毎日も、気づけばそんな日々ばかりだ。


10.
懐かしい気分だ。
この場所で、この角度で夕空を見ながら貴方を待つのは、何回目かだ。
それも、十年ぶりの何回目かだ。
ご無沙汰なのはシチュエーションだけじゃなくて、この場所やこの街の空気もだった。
街の喧騒からは外れたこの場所は、暗くなろうとするこの時間には、すっかり役目を終えている。
遠くではきっと、家へ急ぐ子供が転んで泣き声を上げている。
それを見つけた母親が駆け寄っている。
家からは美味しそうな匂いが漂ってきている。
そんな見えない生活を想像しながら、貴方を待つ。
貴方と夢の中へ歩いて行く数十分後を想像しながら、冷たくなっていく風に肩を狭める。
早く、とは思わない。
この時間が好きだ。
貴方を待っている。
私は待たされている。
何かの間違いではぐれてしまうかもしれないのに、待っている。
早く、とも思わない。
これが最後かもしれないから。

 

11.
一人で、知らない土地の朝を見つめている。
この視界の中でも、いくつかのドラマが生まれているのだろうか。
遠くに人が歩いているのがかすかに見える。
彼もただ生きているように見えて、ただ生きているのではないのだろう。
私が理由を持ってこうして呆けているように、当たり前のことをやるふりをしながら、確かに違った轍へ車を押し出そうとしているのだろう。
それは船かもしれない。
海にまで出られれば、後は委ねるだけできっと面白い物に出会えて、そして死ぬことができる。
それは羨ましいな。
漕ぎ出す勇気などいらないのだ。
視界は狭いほどいいのだ。

 

12.
彼女の人生の一部になった気持ちでいた頃があった。
放課後、暗くなるまで彼女の家にいた。
今はそこへ行くまでの道もわからない。
夢だったのかもしれないと思う。
あまりにも遠い存在だった。
見慣れたはずの街で道に迷うと、そういう場所へ辿り着きやしまいかと期待することがある。
同じような経験を、すれ違う小さな女の子がしている最中かもしれない。
良いな、と思うと同時に、元来た道を引き返している。
もう近づけない方が良い記憶だ。
記憶の中で、私は小さな子供でい続ける。


13.
貴方の見つめる世界は、私の見つめる世界と違うのだと、遠くを見る度に気付かされる。
触れる物ばかり見ていられればいいのに。
そうすれば、全てを知ることができるのに。
貴方の見たいものを言葉で語る度に、離れていく。
私にだけ見えているものを、貴方も欲しがる。
貴方にだけ見えているものを、私も欲しがりたくない。
一緒でなくたっていいから、時々隣で呼吸ができればいいのに。
私だけが見えるものを与えるために、私から得るために、貴方は私を通してそれを見るのだ。
目を瞑って、寄り添って欲しかったのに。

 

14.
我儘を言えるほど、勘違いをしていた。
ごっこ遊びみたいな偶然を繰り返して、そうして出来上がっていた日々のことは、今では靄がかかって思い出せないのは、罪悪感からだろうか。
貴方から謝っていた。
私が傷付けたのだと思い知らされた。
感謝を言わなくてはいけなかったのに。
身を捧げることも許されないのなら、知っていて欲しかった。
貴方こそが私の幸せだったと、伝えなければいけなかった。

 

15.
思い出して、愛してやらなければならなかったのは、私自身の心だった。
それはもう隠れてしまったのだ。
私を揺さぶり騒がせることに罪を感じて、扉の向こうへ閉じこもってしまった。
その戸を叩いて、声をかけてみる。
私を捨てたのは貴方だと、私の心は言った。
私を愛せない貴方は、あの人にも愛されることができないのだと、私の心は言った。
彼女が生まれた時のことを思い出そうとした。
いつから一緒にいたんだろう。
いつまで一緒にいてくれたんだろう。
上手に泣けなくなったのはいつからだろう。
扉の前で、へたくそな涙が、片目ずつから少しだけ零れた。

 

 

 

2023年4月14日

湿った匂いのする夜

 

幻燈

第一章 夏の肖像

を聴きながら

 

 

 

つないで

寂しい夜に思い出す

一人きりの君の姿

太陽なんかじゃ足りないくらいに

湿りきったアスファルト


君の俯いた背中

何もできないわたしが

その左手の小指くらいは

握って


堅く閉ざした拳開いて

そっと深く息を吸い込んで

君の笑顔がまた見たいから

ずっとここで待っているよ



雨上がりなら見えるはずの

青く澄んだ雲の向こう

顔上げられない君の代わりに

虹の色を届けるよ


締め付けられた心が

君を一人にさせると

わたしが気づいてしまったからには

繋いで


ここに君の居場所はずっとある

あの日の願い 叶えると

決めた背中を見送るだけだから

祈って 歌うよ


遠くに見えてた小さい頃の

夢ならずっと叶わないはずの

諦めきれない未来のことだった



堅く閉ざした扉叩いて

そこが君の進む道と確かめて

一緒に行くなんてとても言えないけど

君は一人じゃない

他人からの目線が怖い。

好きなことをやっているだけなのに、喜ばれることが怖い。

何もできない自分に対しては、どう思うんだろうかと考えてしまう。

友達だから、が怖い。

友達だから大切だが、怖い。

友達でもない人に大切にされても困る。私は友達だろうか。

むきあう

むきあう。むきあう。むきあう。

瞼を落として思案すれば、深いところに沈んでしまう。浮かんでいなければならない。引き揚げてもらおうだなんて思わない方がいい。藻掻けば更に沈むし、苦しいだけと知っている。

それなのに、向き合わねば、と呟く。そこに何があるのか本当は知っているのに、長い間忘れている。忘れていなければ、わざと潜水を続けて、浮かび上がるたびに死ぬ思いで胸を膨らませなければならない。

むきあう。むきあう。むきあう。

果たして、それは向き合うことになるのだろうか。軸が錆び付いて動かないのは、自分だけではないかもしれない。その事実にも向き合えない。自分が浮かんでいることを諦めたとて、こちらを見つめているだろうか。

抱えた課題に執着して、行動したことそれ自体に満足して、果たしてこの先もそのままで、良かったろうか。

そうは思わないから、力を抜いて浮かんでいられる方法を探している。

溺れて待っててね

去年はまだ持って行ってた

お土産のクッキーの箱の隅

きれいな赤のその角を

指で弄んでいた

抱えておける思い出と

捨ててしまいたい生ごみ

同じにおいがするのになんで

どっちもどっちでちょっと邪魔くさい

息が かかるほど近くには

今日は もういたくないな

そうだ 外に出かけたら?

僕は ただ眠っていたい

君の

言葉に流れているんだよ

今も忘れられないなら

愛だけ確かめてほかになにもいらないよ

それでも君は

「足りなくて求めてしまうからもう」なんて

1人になれば失える痛みから

逃げて 離れて

いくの

メロウな夢に 溺れて待っててね

朝に 迎えに行くから

それに 焼き立てがいいなら

自分で 作らなくちゃね

夢に 溺れて待っててね

朝に もう死んでしまったの

君は 知らなくていいから

2人は アンハッピーエンドで

愛してくれていいんだよ

僕が愛す君のことは

最低だけどほら キスもなんだってできるし

その身体の片方くらい

奪って嫌われたいなあって

沈んでいけば感じない

痛みも痛くないよ

ああ

叶えないまま

夢に

溺れて

嘘は。

失恋、とは

 君を失ったと、勘違いをしていた。

 失うも何も、端から得てなどいなかった。捕まえてなどいなかった。義務など発生していなかった。それで良かった。

 それなのに、失った、と言う。会えなくなったことをそう呼ぶ。不思議なものだと思う。

 残念ながら、人は人を付属物(belongings)と扱う。この言葉自体に大して違和感は覚えない。自分を取り巻く全てが自分の一部である、という言い方であれば、納得もできよう。

 しかし、それらは勝手に剥がれていく。くっつく時も勝手にくっつく。拾って貼り付けたって、ひとりでに剥がれていく。それは、付属物に生き物が含まれるからだ。意思を持ち行動をする、人間が含まれるからだ。

 だから、所有物であるとか、独占できる権利があるとか、そういった言い回しは、本人が思っていても虚構である。くっつけて歩いている側が思っているとしたら、傲慢で、酷い話だ。

 君を失った。そんな陳腐な言葉が頭を回っている。剥がれていったと感じた理由は、大したことではないのに。自分だって、道楽で剥がれて見せたりしたのに。

 巡り合いという言葉もある。世界に溢れる分子は、偶然という、一定条件下の一定の確率で出会い、計算し得る化学反応が起こって、世界は回っている。それならば、剥がれても、くっついても、それは自然と巡るものなのではないか。

 もう、会えないだろうから。もう、話せないだろうから。そんな推測こそが、意思を持つ生命である人間に対する畏敬であり、意思を持ちながらも世界の構成単位の一つに過ぎない人間に対する誤解なのだと思う。

 いつか、巡り合えるかもしれない。一定条件下の、一定の確率で。少なくとも、会えないと決めつけて生きることに、何かの意味があるのだろうか。

 君が好きだと言っていたものを見て、君を思い出して。自分が好きだと言ったものを食べて、自分の気持ちに気付く。

 ずっと、私は変わらないままだ。

 君と一緒に過ごした時間を忘れられない。記憶している。思い出すことができる。

 記憶だけは、自分の付属物として相応しい。握っていれば離れていくことはない。ただ、握っていなければ失くしてしまうこともある。

 そうであるならば、私が失ったものは、君ではない。君を信じる気持ちだ。君との記憶を握っている気概だ。

 しかし奇遇にもそれは、如何様にもまた作ることができる。

 こうして連ねているだけでも、簡単に湧いてくる。

 さあ、今日を、明日を生きよう。

 何年前かには君と共にいた時間。君がいなくなっても、失ったわけではない。