nararaiぶらり

お金にならないものを貯めたい

Portrait of Summer

1.
初夏。ちょうど、夜の空気が湿っていて、息を吸い込めば胸いっぱいに夏の匂いが立ち込める季節。
あの公園で、あの夜に、貴方とお菓子を食べた季節。
あの頃の記憶は今でも確かに少しほろ苦く感じるほどに幸せだった。
ほろ苦く感じるのに、きっと私はあの下り坂を、スキップで下ってしまうだろう。
貴方が待っている。
貴方が待っていると思って、足取りが踊ったのだと、貴方に伝えるために。

今年は、夏が来る前に訪れて、新しい記憶にしよう。
貴方がいないあの公園を、覚えていよう。
そして、微睡みに沈む、大人になった貴方の真似をしてみよう。

 

2.
恋をしているんだ。
貴方の口ぶりでわかった。
綺麗なものを語る人の目だ。
素敵なものを嗅ぐ人の声だ。
そして、貴方の恋はきっと届かないんだろう。
そんな遠回りに褒めなくたって、貴方の好きな物は素敵なのに。
まるで掬い上げようとすれば逃げる水面の花びらを愛でるみたいに、遠い輪郭ばかりなぞるんだ。
それが幸せなんだなあ。
それが望みなんだなあ。
私は、近くで貴方の幸せを噛み締めることにした。


3.
随分遠くまで来た。随分長く同じように歩いてきた。
胸の奥底にはグルーヴがある。
リズムに身体を委ねれば、他人が嘲笑うような長い旅路も、案外と辛くない。
何が目的かは忘れてしまったが、馬鹿みたいに歩き続ける自分が嫌いではなくなっている。
きっと人生の大半のことはこんなことばかりだ。
乗りこなしてしまえば不幸も大した不幸ではないのかもしれない。
それでも、頑なに不幸を不幸と呼ぶ自分自身こそが呪いのようだ。

 

4.
眠りから覚めた後、想像以上の陽気と、乾ききった喉から漏れた息が否応なしに現実に引き戻してくる。
けれど、悪くない。悪くない普通の現実だ。案外と、私は普通に一日を過ごしている。
椅子から腰を上げた瞬間。
キッチンカウンターの角にそれとなく手をかけた瞬間。
キッチンの窓から差す西日が私の足元に影を作った瞬間。
胸の奥底が焦げる匂いがする。
その原因に思い至らない。夢の中で、何を見たんだろうか。
私はどうして、涙を流していたんだろうか。


5.
どうしてもっと速く歩けないのだろうか。
雪に埋もれないように、足を高く持ち上げる。
どんどんと重たくなっていくのに、雪はどんどん深くなっていく。
このままではどこにも行けない。このまま白に埋もれてしまうかもしれない。
途端に泣きたくなる。
普通のことなのだ。
自分だけが不幸だから、こんな目に遭っているわけではないのだ。
けれど、逃げるために、離れるために、歩を進めることが、これほどまでに重いだなんて、知らなかった。
きっと貴方も泣きたい気持ちだろう。
どうして、こんなにも辛い思いをして、離れなければいけなかったのだろう。
でも、辛い思いをしないことが、二人の目的ではなかったのかもしれない。
辛くて良かったのに。
呟いて、涙が頬で凍り付いた。


6.
音と光が、過っては波のように目と耳に刺激を与える。
ずっとこの場所にいては、私はいつか彼らに轢かれてしまうかもしれない。
きっと今晩が晴れていて静かであれば、こんなことは考えないのだろう。
否、今度は月に連れて行かれそうな気分になるかもしれない。
恐怖は所詮、道楽だと鼻で嗤う。
笑い声を上げる以外に、それらを吹き飛ばす方法がない。
恐怖に浸かりながら、笑い、楽しげに千鳥足で進むともなく揺れる。
離れて行ってしまえばいい。
静かな場所でも、騒がしい場所でも、私に関心を寄せるものは、私でさえも離れて行ってしまえばいい。
何も残らない場所でならば、孤独など定義されないのだろうから。

 

7.
駅前広場の喫煙所の入り口で、煙臭い男の胸に頬を寄せる少女。
背を伸ばして、懸命にその胸に摺り寄せて。
それで得られる物が羨ましい時が、私にもあった。
夜の街で、煙草や酒の匂いを浴びて、それでも美しくいて、それで愛されることが喜びだと思っていた時が、私にもあった。
男が少女の額を撫でる。
その後は見ないように、踵を返した。


8.
昔は確かに知らなかったのだ。
こんなに愛だの恋だので人間の汚い部分が生まれ、顕になって、好きだったはずの人を憎むようになるのが、あまりにもよくある話だと。
知っていれば愛さなかっただろう。
現に、今は愛することができないのだ。
気付けば隣にいた貴方を愛して、傷付けて、遠くにいる今も夢の中で蔑み続けるのだから。
十年前の記憶の中でだけ、貴方も私も穢れを知らない笑みを知っている。
あのままでいられれば良かった。
あの頃は何も知らないで、何も考えないでいてくれてよかった。
目の前に幸せがあったのだ。気付かなければ消えやすい物にもならなかったのだ。
目を瞑ってあの頃の自分の声を思い出そうとする。
どんな声で、貴方を呼んだろうか。

 

9.
風が強いと、悲しくなくても涙が出る。
特にこの季節の風はそうだ。
花は疾うに散って、砂煙や草いきればかり運んでくる。
日が陰ってから想像以上に冷たく、想像通りに温い風が髪を乱して、瞼の内側にまで入り込んでくる。
そういう時は歯を食いしばるものだ。
何に対抗しているものか、風に対抗しているのだが、やけにムキになる。
やがて風がすっとどこかへ行ってしまった後、坂道の上ではっと気が付く。
気持ちのいい空気を大きく一つ吸う。
最近の毎日も、気づけばそんな日々ばかりだ。


10.
懐かしい気分だ。
この場所で、この角度で夕空を見ながら貴方を待つのは、何回目かだ。
それも、十年ぶりの何回目かだ。
ご無沙汰なのはシチュエーションだけじゃなくて、この場所やこの街の空気もだった。
街の喧騒からは外れたこの場所は、暗くなろうとするこの時間には、すっかり役目を終えている。
遠くではきっと、家へ急ぐ子供が転んで泣き声を上げている。
それを見つけた母親が駆け寄っている。
家からは美味しそうな匂いが漂ってきている。
そんな見えない生活を想像しながら、貴方を待つ。
貴方と夢の中へ歩いて行く数十分後を想像しながら、冷たくなっていく風に肩を狭める。
早く、とは思わない。
この時間が好きだ。
貴方を待っている。
私は待たされている。
何かの間違いではぐれてしまうかもしれないのに、待っている。
早く、とも思わない。
これが最後かもしれないから。

 

11.
一人で、知らない土地の朝を見つめている。
この視界の中でも、いくつかのドラマが生まれているのだろうか。
遠くに人が歩いているのがかすかに見える。
彼もただ生きているように見えて、ただ生きているのではないのだろう。
私が理由を持ってこうして呆けているように、当たり前のことをやるふりをしながら、確かに違った轍へ車を押し出そうとしているのだろう。
それは船かもしれない。
海にまで出られれば、後は委ねるだけできっと面白い物に出会えて、そして死ぬことができる。
それは羨ましいな。
漕ぎ出す勇気などいらないのだ。
視界は狭いほどいいのだ。

 

12.
彼女の人生の一部になった気持ちでいた頃があった。
放課後、暗くなるまで彼女の家にいた。
今はそこへ行くまでの道もわからない。
夢だったのかもしれないと思う。
あまりにも遠い存在だった。
見慣れたはずの街で道に迷うと、そういう場所へ辿り着きやしまいかと期待することがある。
同じような経験を、すれ違う小さな女の子がしている最中かもしれない。
良いな、と思うと同時に、元来た道を引き返している。
もう近づけない方が良い記憶だ。
記憶の中で、私は小さな子供でい続ける。


13.
貴方の見つめる世界は、私の見つめる世界と違うのだと、遠くを見る度に気付かされる。
触れる物ばかり見ていられればいいのに。
そうすれば、全てを知ることができるのに。
貴方の見たいものを言葉で語る度に、離れていく。
私にだけ見えているものを、貴方も欲しがる。
貴方にだけ見えているものを、私も欲しがりたくない。
一緒でなくたっていいから、時々隣で呼吸ができればいいのに。
私だけが見えるものを与えるために、私から得るために、貴方は私を通してそれを見るのだ。
目を瞑って、寄り添って欲しかったのに。

 

14.
我儘を言えるほど、勘違いをしていた。
ごっこ遊びみたいな偶然を繰り返して、そうして出来上がっていた日々のことは、今では靄がかかって思い出せないのは、罪悪感からだろうか。
貴方から謝っていた。
私が傷付けたのだと思い知らされた。
感謝を言わなくてはいけなかったのに。
身を捧げることも許されないのなら、知っていて欲しかった。
貴方こそが私の幸せだったと、伝えなければいけなかった。

 

15.
思い出して、愛してやらなければならなかったのは、私自身の心だった。
それはもう隠れてしまったのだ。
私を揺さぶり騒がせることに罪を感じて、扉の向こうへ閉じこもってしまった。
その戸を叩いて、声をかけてみる。
私を捨てたのは貴方だと、私の心は言った。
私を愛せない貴方は、あの人にも愛されることができないのだと、私の心は言った。
彼女が生まれた時のことを思い出そうとした。
いつから一緒にいたんだろう。
いつまで一緒にいてくれたんだろう。
上手に泣けなくなったのはいつからだろう。
扉の前で、へたくそな涙が、片目ずつから少しだけ零れた。

 

 

 

2023年4月14日

湿った匂いのする夜

 

幻燈

第一章 夏の肖像

を聴きながら