nararaiぶらり

お金にならないものを貯めたい

失恋、とは

 君を失ったと、勘違いをしていた。

 失うも何も、端から得てなどいなかった。捕まえてなどいなかった。義務など発生していなかった。それで良かった。

 それなのに、失った、と言う。会えなくなったことをそう呼ぶ。不思議なものだと思う。

 残念ながら、人は人を付属物(belongings)と扱う。この言葉自体に大して違和感は覚えない。自分を取り巻く全てが自分の一部である、という言い方であれば、納得もできよう。

 しかし、それらは勝手に剥がれていく。くっつく時も勝手にくっつく。拾って貼り付けたって、ひとりでに剥がれていく。それは、付属物に生き物が含まれるからだ。意思を持ち行動をする、人間が含まれるからだ。

 だから、所有物であるとか、独占できる権利があるとか、そういった言い回しは、本人が思っていても虚構である。くっつけて歩いている側が思っているとしたら、傲慢で、酷い話だ。

 君を失った。そんな陳腐な言葉が頭を回っている。剥がれていったと感じた理由は、大したことではないのに。自分だって、道楽で剥がれて見せたりしたのに。

 巡り合いという言葉もある。世界に溢れる分子は、偶然という、一定条件下の一定の確率で出会い、計算し得る化学反応が起こって、世界は回っている。それならば、剥がれても、くっついても、それは自然と巡るものなのではないか。

 もう、会えないだろうから。もう、話せないだろうから。そんな推測こそが、意思を持つ生命である人間に対する畏敬であり、意思を持ちながらも世界の構成単位の一つに過ぎない人間に対する誤解なのだと思う。

 いつか、巡り合えるかもしれない。一定条件下の、一定の確率で。少なくとも、会えないと決めつけて生きることに、何かの意味があるのだろうか。

 君が好きだと言っていたものを見て、君を思い出して。自分が好きだと言ったものを食べて、自分の気持ちに気付く。

 ずっと、私は変わらないままだ。

 君と一緒に過ごした時間を忘れられない。記憶している。思い出すことができる。

 記憶だけは、自分の付属物として相応しい。握っていれば離れていくことはない。ただ、握っていなければ失くしてしまうこともある。

 そうであるならば、私が失ったものは、君ではない。君を信じる気持ちだ。君との記憶を握っている気概だ。

 しかし奇遇にもそれは、如何様にもまた作ることができる。

 こうして連ねているだけでも、簡単に湧いてくる。

 さあ、今日を、明日を生きよう。

 何年前かには君と共にいた時間。君がいなくなっても、失ったわけではない。